考えることとコミュニケーション

私が研修を受けているオフィスは世田谷区にあるのですが、
住宅地を歩くとウネウネと蛇行する道に気づく。
ああ・・・車が速度を出せないようになってるんだなと。
高級住宅街にある風景も少し考えることで新しい刺激となる。
単純に道を歩くだけでも、頭を使い考え続けることで
少し賢くなる。少し世の中を知ることができる。
本当に電柱を見るだけでも面白い。
住宅のチラシが張り付いていれば、その辺の土地の値段の相場がわかるし、
チラシ自体を電柱に張るのが違法なので管理されていないことがわかる。
(そもそもちゃんとした不動産屋はペタペタチラシを電柱に張らないらしい
ショウルームの看板なんかは許可を得て立てることはあるそうですが。
電柱も電力会社の所有資産なので不法使用にあたるそうです。)
なんてことを考える。そんな街の見方、いかがでしょうか。


あと、研修を受けて衝撃を受けたこと。コミュニケーションの「意味」である。
私は基本的に人間は分かり合えないと思っていた。
男と女でこんなに分かり合えないのである。
本当の意味で完全に理解しあうのは不可能であろう。
というか、理解されれば怖い。サトラレと同じである。
本当の自分の考えを完全に理解されるのは人間は実は怖いのである。
そういう意味で理解しえないことは当然だと思っていたのだ。
つまり完全なコミュニケーションなど存在せず、コミュニケーションは価値の薄いものだと思っていた。
実に愚かな考えであったと思う。
そもそも、いいコミュニケーションとは何であるかを考えるべきだったのだ。
研修中に私にひとつの答えが提示された。
コミュニケーションで相手の話を「理解する」ことはコミュニケーションの途中であるそうなのだ。
つまり閉じたコミュニケーションの流れとは
「話し手が論理的に"話す"」
→「聞き手が内容を"理解"する」
→「聞き手が内容を"納得"し、聞き手の考えとして消化吸収される」
(ここで話し手の意図と受けての意図が変化しても構わないし、変化させることを意図し抽象表現する方法もあり。)
→「聞き手が何らかの"行動"する」
というものがよいコミュニケーションなのだそうだ。
つまり、コミュニケーションの目的は「理解される」のではなく「相手を動かす」ことなのだ。
これは実に『深い』と思った。
今まで相手に「理解」させることがコミュニケーションの基本だと思ってきたのだが、
本質は違っていたのだ。「理解」の奥に「納得」と「行動」があるわけだ。
つまり、「理解」は無価値ではなく、「納得」と「行動」させる土台であると言うのだ。
これは厳しい。コミュニケーションで相手を動かせというわけである。
その方法論は果てしなく難しい。これから私が考えていくテーマである。